おぞましい欠損者の庭

ギークハウスAdvent Calendar 2015

なにかをしていないと 自分が壊れてしまいそうだった
だからがむしゃらに山に登った

夢枕獏 『神々の山嶺』より

先月まとめて仕事に費した分を取り戻すため、今月になって南アルプスへと度々入り込んではしばらく山中を放浪していた。サルオガセに包まれた樹林帯を踏み抜きながらツボ足で超え、稜線に乗ってからは新しい粉雪をラッセルするが、時にそれが湿って重くなる。通ったところにあまりクラストしたところはなかった。痛めている右膝は新しいサポーターのお陰かそれほどの違和感はない。薄い雪が強い風で煽られて降り、雪煙も舞う視界の外の、どこか遥か遠くからは地鳴りのような低い響きが聞こえてくる。このあたりにそれほど大きな雪崩を起こす場所は思い当たらないし、大きな崩落地というほどのものもなかったはずだから、どこかで風雪がこの不気味な音を立てているのだと思われた。うっかり進む尾根を間違えれば、今日のうちに安全な場所まで行ってテントを張ることは難しくなるだろう。緊張によりペースは上がらず、立ち止まって行動食を食べている間に体温はたちまち低下していく。早くここを抜けようと気が焦り、ザックからテルモスを出すよりも歩いたほうが体が温まると考え、進みながらハイドレーションチューブを咥えると飲み口の表面の水分が凍り付いていた。それほど寒いわけではないはずだが、朝に考えていたよりは低い気温であるようだった。昨晩会った山小屋の人間の言うとおり、不規則な風の強弱に緊張させられながら、脛で雪を押し潰して歩く。距離はなかなか稼げず、ピッケルはオーバーグローブを通しても冷たい。

俺はいつもただひとりで山に入っていた。人と関わるのが怖かった。人と関わりを持ち、社会的な人生に自信を持つべきであることはわかっているつもりだった。人が恋しかったし、人が好きであったから、踏み跡を追ってしまう。それが鹿や猪のものであった時にはよくわからぬトラバースを強いられることもあるが、自身の座標を高性能な腕時計で確認して間違いに気付いたところで本来の尾根に戻るつもりにはならなかった。獣のトレースをしながらこれは人の跡だと自分に言い聞かせた。それはあまりにさびしい道であったし、雪山であるからこそ許される無茶なやり方だった。初冬の南アルプスとはいえ、この斜度を滑落すれば停止に成功する保証はないし、そしてあちこちに露岩が見えていて、少しの気の緩みでも命は危うかった。その道を力任せに突破しようとする。強い恐怖が身にこびりつき、死の気配がいたるところからやってくる。おおよそ冷静な理性らしいもののほとんどは消え失せて、生き残る方法を考える熱だけが自身を支配する時、極限に近い状況の人が本能として人に救いを求める心は消え失せて、死の気配と恐怖こそがたしかに俺の友となるのだった。我が身を守るものはもはやそれしかなかった。

本来であれば山岳会に入り学ぶべきだろうと考えることもあるが、それは叶わぬ願いでしかない。俺のように経歴の汚れた人間が名簿に席を置くだけで迷惑が掛かるという話には留まらない。そもそも俺は常に傍流だった。はじめから世の流れというものがあまりに何も見えていなかった。それは生得的なものであったし、本能が世間に生きることを求めたとしてもその世間を理解する術がない。大人の席で子供が酒を飲みたがり、こっそり口にしても苦みで吐き出してしまうようなものだった。床を汚し、泣きながら隠そうとして、大人達を余計に怒らせてしまう。それを中年に差し掛かる歳になっても続けている。己の欠損はどうにもならないが、それに対するやり方はわかっている。人が恋しくて俺のすることは、常に激しい戦いだった。人に認めてもらう方法がわからない、人に認められてもそれを理解することができない。だから大きなものを辿るしかなく、そのため道ならぬ道に入り込み、寂しさすら忘れるまで長く長く、いつからそうしているのかわからないほど途方もない距離を歩く。その道と、遥か先にいくつかのおぼろげな頂だけが見えていた。やがて俺が得るものは、真摯な年月を投じた者にしか見ることのできない美しい景色と強く震える心だった。

数年前に入居したのは一番最初に作られたギークハウスで、ギークハウスはまだそのひとつだけだった。東京の郊外の、そのもっと外れのよくわからない土地に何も考えず転居して、俺はそれを腰掛け程度にすら感じなかった。山中でビバークするためのツェルトのほうが、まだ自分のために自分が設置する自分にとっての家だと思えたし、それに比べればギークハウスはただの場でしかなく、俺にとっては喫茶店や公園と変わらないものとしか認識できなかった。住民票というものもよくわからないし、居住実態というものもわからないし、それは他の住民も来客も概ねがそうで、ギークハウスの中は常にでたらめだった。薄汚れて散らかり、まるで我々が定住という概念をろくに理解できないように、あらゆる物事が無秩序に動いていた。漫画が本棚に並んでいれば誰かが全巻一気読みをした後でもののついでに並べたためだったし、それはすぐばらばらになって乱雑に積まれ、何冊もなくなった。猫が六匹いたし、それに加えて犬を預ったこともあった。家の中で猫の間を犬が走り猫に殴られていた。人間もすぐによくわからないことをアーと叫んだり喚いたり、繰り言を続けたり歌ったりしていて、それらは意図をもったものではなく、咳やくしゃみと変わらなかった。木製の小さな本棚が犬に齧られて猫の爪研ぎの道具になり、どんどん破損していったので金属製のものだけが残り、使用に難が出るほど崩れたものは笑いながらぐずぐずに壊して捨てた。犬は猫とようやく仲良くなった頃にすぐ飼い主のところに戻ってしまい、猫は寂しそうに犬の寝床を嗅いでいたが、猫であるからそれもすぐに忘れて翌々日には元の気ままに戻った。

俺が山をやるようになったのは、その頃にあった精神病が寛解して、それから更にかなり後のことだった。山に入った他の人間のことを知りたくなり、山の本を読み漁るようになった。佐瀬稔による第二次RCCを扱った『喪われた岩壁』に次のような文がある。これは戦中から貧しく険しい岩を登る若者達が、戦後ようやく様々な山行を重ねることが可能となった頃の場面である。

「軽装・無謀登山」が遭難事故のたびに批判の対象となるのはずっとあとのことだ。敗戦直後、山に登ろうなどという者は多かれ少なかれ、軽装であり、無謀だった。十分な装備はどこを探してもないし、なおかつ、失われたものを取り戻そうと心がせいている。だから、山へ向かって一歩踏み出したそのとたんから、彼らは軽装、無謀だったのだ。

その頃の日本山嶺倶楽部の会報『登攀者』の内容は若者の荒らくれた熱意の表出というべきもので、佐瀬稔は同じく『喪われた岩壁』においてそれをこう評している。

おそらく、書いている本人にしてからが何を書いているのかさっぱりわからないのだろう。わかるのは、彼らが一途であるということだけだ。街でその日その日を食いつなぐのが精一杯で、それだけでももう十分みじめなのに、彼らはオンボロの姿で山へ行ってはさらにみじめな思いをして帰ってくる。彼らをつき動かしているのは、どうにも抑えようのない自己表現の衝動である。山でさんざんの目に遭って帰ってくること自体、本人は気付かないにしても、やみくもな表現の手段なのだ。

そして彼等は、大学山岳部や日本山岳会のような日本登山界の主流からははずれ、日本アルプスのような乾いた高い岩場ではなく、その常々を東丹沢、より深い西丹沢のじめじめした藪山の沢登りに、やがて谷川岳の暗くしめった岩壁に捧げていく。かの芳野満彦に至っては、北アルプスで冬の小屋番をやっていたにも関わらず、同書によれば次のような有様である。

芳野は凍傷にかかった両足先、かかとから爪先までの長さのうち約三分の一を切断した。(略)

芳野の短くなった足は激しく痛んだ。出血し、靴下が濡れ、その靴下をしぼるとどす黒い血がたまった。

(略)

芳野は血まみれの足で歩く。生身を切り刻まれる痛みに加えて、ひっきりなしにつまずく。転ぶ。苦痛はしばしば意志の力の限界に達する。靴の左右を取り替えて履いてみた。なにも変わらない。島々宿でなにげなく拾っておいた、馬に履かせるワラジも脱ぎ、冬山で靴の上からつけるオーバー・シューズをつけてみる。苦痛は同じことだった。

(略)突然、梓川を隔てて明神岳の岩峰を中心に展望が開ける。峠に立って、芳野は震えていた。耐えきれぬ苦痛がある。が、それだけではない。彼は一つの終末から、暗い谷を這って抜け、確かな出発点にたどり着いたのである。

多量の血液を差し出し、ただならぬ激痛を身に受けようとも手放すことのできない登りへの決意は、当人以外の誰にとっても当人の思うほどに崇高なものとはならないだろう。この覚悟は当人の命と密に接続した、当人にとってのみ特別なものである。その頃の芳野満彦について、奥山章『ザイルを結ぶとき』収録の文で、1969年にこう回想するものがある。

大学の山岳部員が、ひと月も冬の山へ入って、毎日山麓の荷物はこびをやって山へ登らずに帰ってくるなどということが当たり前の時代でしたから、冬の岩壁で計画的なビバークするなどということは、自殺同然と決めつけられるし、冬のビバーク常習犯の芳野満彦君などは“ビバーク魔”といわれ、悪魔の申し子のように忌み嫌われたのも無理からぬことでありました。

それでも自らの人生を自らで獲得せんがために、彼等は戦慄の登攀を続けるしかなかった。少なくともこの頃、彼等は傍流でしかなかったのである。

最初期の頃のギークハウスにあって、我々は常に傍流だった。それは第二次RCCの持つ傍流の意味や渇きとは異なるものであると思う。しかし、我々は世俗やそこにある主流というものになることはできない、という点において同様だった。何故なら我々ははじめから何も見えていない。我々は何も持つことができず、持っているはずのものをいつのまにかどこかでなくしてしまうような出来損ないの集まりだった。仲間という概念が最初から認識できず、なにやら醜悪な痴れ者の集まりとしか思えない。楽しくやろう、という連中に半笑いで両手中指を立てて「一生人間関係だけやって終わるお前の人生」と馬鹿にして溜飲を下げることしかできない。我々は常に互いを認識すらせずに交差する個でしかなく、不安定無秩序に動き、人と人の間にある関係を認識できない。だからこそ何かをしなければならなかった。誠実に、より真摯に、人生を捨て去るように、その自覚すらしないまま時間を投じた分、自分の見ようとした視界だけが広がっていく。同じものを見る他の人間のことすらよく見えなかったが、よりそこにのめり込んでいくことはできた。世界との繋がりはもはやそこしかなかった。場合によってはそういった自分の見るべき世界との繋がりをほんの少し獲得することにすら失敗した。より高く、より美しくなければ自分で自分のすることを許せないため、自分の到達した場所を否定してよりストイックに進み、その代償に自分の精神を支払った。その上でそれを仕事にすることすらあるのだからたまらない。社会は極度の特殊性と世俗との剥離を嘲笑し、また罵倒する。そのふたつを繋ぐことは当人か誰がしかがせねばならないが、それができる人間は実際には世界にほとんどいなかった。我々には、世から滑落していくその凄惨な自己の状態を認識することすらできなかった。

このような生き方は世俗の潮流などからはあまりに違いすぎるし、何らかの流れを作っているように見え、たとえ実際にそうであっても当人には何も見えていない。我々に必要だったのは、そういったあらゆるものの見えていない者達が、見えていないまま徘徊し続けてなんとか生存可能な、欠損者の庭だった。なにも見えていないことにすら充分に自覚的とはいえぬ者達が意図せずぶつかり、ぶつかったことすら理解できずに何かを破壊して、それが崩れたまま放置される、そういった我々にとっての楽園はすくなくとも、最初期からしばらくの間のギークハウスには存在した。

我々は仲間を求めない。仲間という概念の認識が欠損しているから、仮に仲間と呼称してもより歪んだおかしなものを求めることしかできておらず、その実態は大抵において他人への依存とリソースの一方的な利用という、きわめて憎しみを呼び起こしやすいものである。そこの先に安定した状態など望むべくもないし、また誰もそれを満たすことはできず、各個人がそれなりに人間的ふるまいを実現できていたとしても、それは人間のように見える別の何かだった。

先の無謀な傍流の登山家による、孤高の同人である若者達で結成された第二次RCCという組織は、その先鋭的登攀の果てに世界的な業績を達成し始めるが、その血筋はやがて変化していく。『喪われた岩壁』には次のようにある。

しかし第二次RCCは今、最後の戦いがあった。育ちの悪い岩登り集団が、由緒あるイギリス山岳会や日本山岳会、つまり、登山家のロイヤル・ファミリーにしか許されなかったエベレスト南西壁に挑む、という戦いである。奥山は、その戦いの過程で、第二次RCCは決定的に第二次RCCではなくなる、ということが予感できたに違いない。

エゴイズムは、自己の中で受け取りと支払いが完結する、という点において十分美しい。エゴイストは、ひたすらおのれの欲するものを追求するが、そのために発生した負債はすべておのれが負い、時には生命そのものを支払いに充てる。そういう男たちが、今、集団に奉仕し、献身し、犠牲になろうとしている。

この後、第二次RCCを立ち上げた奥山は癌に侵されていることが発覚し、手術を繰り返した末、エベレスト南西壁登山が開始されるより前に自殺する。

我々はそのようにならなかった。そもそも岩壁登攀というひとつの目標を共有するという形に比べれば、我々はあまりに多様すぎたし、中心と呼べるものもなかった。育ちどころか社会的な立ち位置においても明確に「悪い」、粗雑な個体の集まりだった。傍流において絶望と崩壊と熾烈な戦いを繰り返すことしかできない我々について、社会は眉を顰め、非難や攻撃を繰り返す。真っ当な生活もままならず、おおよそまともに働いた結果の報酬を焦点として制定されている「最低賃金」を目下の問題とすることすらあるほどで、それはより粗雑な就労と、それによるひもじく苦しい貧困の自由を求めるということである。社会的な最低限の礼儀を守る、最低限うっかり物を壊さない、最低限の配慮をし他人を傷付けない、という水準すら時に守ることができず、生活がみすぼらしく破綻し続け、その上に自分達の不遜、悪辣、不潔を改善すること、ましてそれらを自覚することすらできず、逸脱したまま生存するためには、真っ当な勤怠の形状からは大きく離脱し、社会からもひどく罵倒され続けることに耐える必要があり、そして我々のストレス耐性は極度に低いため、そこからすら更にこぼれ落ちていく。

現在、我々には想像の遥かに上をいく最悪の終わりがやってきている。我々に比べればずっと「善良」な、「素朴な苦悩する若者」がギークハウスにおける多数派を占めたのである。現在、恐らく最も大きな勢力である「ときさば系ギークハウス」を運営し、冗談としても極寒としか言いようのない「砂糖は麻薬論」を繰り返し喧伝する、ときさば氏は次のように言う。

ギークハウスは保証人がいらないところが多いし、オタク的な話、ネット、IT的な話は多くの住民がついてこられるしで、話が盛り上がって深夜に及ぶこともよくある。だから行き場が無いと思ってる人は一度来てみてほしい。たぶん今いる周囲よりちょっと理解してくれる人が多いと思う。何より好奇心が強い人がいるので、いろんなことをやるし、眉をひそめる人もいるけど、悪いことをしてる時以外は暖かく見守るか、助言してほしい。

ギークハウスを3年で10軒作った話 - tokisabaのブログ

ときさば周辺と違い、我々に「理解してくれる人が多い」などということはない。我々は何も見えていない。我々は常に眉を顰められ、面接に行けば皮肉を言われ、仕事をすれば常に怒られ続け、家賃は何ヶ月も滞納し、追い出されれば新規物件の契約もできず、生活保護の手続きをする事務能力も無く、生活は乱暴で、物を意図せず破壊してその責任を取ることも、責任を取らせることすらできず、全員が混乱し、良くて「うーん、凄いね、破茶滅茶になった、終わりがやってきたね」と笑うか、悪ければ「お前、ふざけるな、何なんだよ、ここは気狂い部落だ」と怒号を張る、どちらにせよ壊れたものはそのあたりに放置され、これまで通りに粗雑な欠損者として曖昧な徘徊を継続する。自分が何をしたいのか主張できず、自分が何かを決定しなければならない時に自分でそれをできないことを他人のせいにする。しかし、それでもお互いになにもかも見えていないがために全てが放置され、そして丸ごと世俗から弾き出され、石を投げられ、臭い体で、おぞましいまでのみじめさで、要領を得ない繰り言を口にして、そういった本当に最悪な、石の裏に蠢く虫達のようなじめじめした場所に生存し、真っ当ではない体をして、それでも湿った岩壁の先には何かがあると思い、そこに向かうことだけをするのだ。そして、何かほんの一歩ですら進むことができないか、たとえ強く努力し大きく進んでも人生は一向に好転する気配を見せないし、好転した場合ですら、当人にはそれを自覚できず、立ち場も成果も破壊して捨ててしまう!

ある種の人間関係を当然のように重視できるときさば系ギークハウスの特性から、技量の研鑽もそこそこに社交行為ばかりしてその自覚が無いことはやはりあまりに多いようで、真っ当な高い水準の技術者の集まりに出入りしてきてこちらが本当に迷惑をして対応に追われることもあるが、それは他のところの人間もやってしまうことだしそもそも排除しようにも限界があり、ともかく仕方のないことであり、すなわち悪いことと言うのは難しい。ときさば系ギークハウスのようなことをやりたいならそれは明らかにそうするのが良い。何故ならそういった場所に居られる人間と、もはや各自が離散して居場所すら喪失しつつある我々は本質的に相容れず、そういった場所に回収されている人間はその限りにおいて我々とは棲み分けができるからだ。そういった多様性の形は、人間が不適切な混在と無意味な混沌を発生させずに済むという意味において有用である。彼等は我々のところへ来るべきではないし、我々も彼等の中へと入るべきではない。彼等には曲がりなりにも人間関係という能力があり、それは本来、我々が手にしていればかなり救われていたかも知れないものだ。ある程度は真っ当な社交ができ、届きもしない光のためにできもしない自らの命を投じるほどの研鑽を必要としない彼等を、我々は僻んでおり、そして恨んでいる。

我々の人生はみじめで、救われることの少ないものだ。我々は、自身のやろうとすることを社会を放逐して追求することで、ようやく少しだけ希望を持つことができるものの、そういった光には大抵手が届かないか、手をどちらに向けたらいいのかすらわからないまま混乱するか、最も良い場合であっても、手のひらの上をかすかに踊ったあとで冷たく消えてしまう。ほんの小さな光を求めるがその存在を認識することすらない者もかなり多い。世界は暗く、湿気ってぐずぐずしていて、いつも黴や腐敗の悪臭が漂っている。我々は不具であるため、そういった世界しか見えない。だからまるで現実的ではないより美しい光を求めることを繰り返すしかない。

南アルプスにおける稜線のラッセルを終える頃には風も弱くなり、雪は止んでいた。雲は自分の立つ山肌からは離れ、遠く雲海が広がり、3000m前後の峰々がところどころに顔を出す。世俗を離れ、厳しく人を襲う冬山の終盤にふさわしい、鮮烈な虚構性のある、あまりにも美しい世界だった。俺はわざわざみじめな日常に戻るため、この景色を捨て、山を下りなければならない。

次に示すものは、夢枕獏のフィクション作品『神々の山嶺』において、羽生丈二が遭難中に重度の低体温症になり、死んだザイルパートナーの幻覚を見ながら残した手記の一部である。

もうすこしまっていれば
いずれおまえのところにおれはいってやるよ
いつかおちるその日まで おれは ゆくぞ


おれがおちるのをこわがって 山をやめたり
おまえのことなんかわすれてひとなみなことなんかをかんがえはじめたら
そういうときにおれをつれにこい


いまは まだそのときじゃない
おれはおちるまではいくから
かならず いくから


ただ わざとおちる
それだけはできないんだ


(略)


いいか
おれはぜったいにおれだけがしあわせになろうなんておもっちゃいない


おれはらくになんてなろうとおもっちゃいない
いいか おれがやくそくできるのはそれだけだ


おれはここへくるのをやめないから
あんしんしろ
おれはずっと山を行く

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